美しい、ということについて

わたしは可愛いものにはあまり興味がない。美しいものが好き。

揺るぎなくて、強くて、ただまっすぐに吸い寄せられてしまう何かがある。それは光の揺らぎであったり、濃淡であったり、質感であったり、ツヤ感であったり、輝きであったりする。

綺麗なもの、美しいものに惹かれる。
またそれを生み出せる人を無条件で尊敬してしまう。

でもすべての美しいものを手にしたいとは思わない。
美しいものはみんなで共有しなければ。

美というのはそれまでに貴重で偉大で、人生を狂わせるものだと思う。けれどそれが分かっていながら、あるいは無意識のうちに、人は皆どこか遺伝子レベルで「美」に惹かれる生き物なんじゃないかしら。もし人によって違うとしたら、美しいものを感じる「感度」があるのかもしれない。

あたしは最近思うのだ。

努力ではカバーできない「才能」という感度があること。そして世界は様々な美しさに満ちている。そういった様々な美しさに敏感であることは「才能」なんだと。そして同時に美しさに溺れない知性もまた必要。そしてどっぷりと浸かるというセンスも。すべてはバランスなのだ。

はじめからいい人がいるわけじゃない。いい人でいようとする強い精神力が「いい人」を創るのではないかしら。人として誠実であろうとする気持ちが本当の誠実さを産む。だとしたら、美しくあろうとする気持ちが「美しいもの」を創りあげるのだと思う。いきなり美しくなるのではなく、実にさまざまな試行錯誤の上でコツコツと積み上げられたものの総称を「美」と呼ぶ。わたしはそう思う。

簡単にお手軽に創れる「美」などあるはずがない。それは感度の低い「美のようなもの」でしかない。それで満足するのもひとつの幸せだし、決して間違いではないと思う。

けれど、本物の美を求めるならコツコツと積み上げるしかない、そして同時にあらゆるものへの感度を高めていかなくてはならない。繊細で地味で、そしてそれはピュアでなくてはならない。「才能」がなくてはならない。

ほんまちゃん

わたしにはそれを感じる才能があるのだろうか、と考えてみる。うーむ、わかんない。それでも、本当に大切なことは迷わない。迷うということは危険信号だ、と思う。世間体など気にしない。周りへの見栄や根拠のない意見などに惑わされてはいけない。誰かがすばらしいといったからじゃない。自分の感性が迷わずに惹かれるものを大切にする。ただそれだけで幸せになれるんじゃない?自分が信じるものを信じる。自分が美しいと思うものを信じる。そしてそれに全力で向かっていく。そのためのリスクはとり続ける。何も捨てずに何かを得られるなんてことはほぼない。

本質は何だろう、と考え続ける。そうすることでいつか、本当の答えにたどり着ける。すべてのことはきっと、ひとつの答えに向かって進んでいるんじゃないかな。自分だけのひとつの答えに。

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