やさしい嘘

「偽」が今年を示す漢字だと発表されてから少しだけ時間がたちました。
いつわり、という言葉が今年一年を示すというのはいかがなものか、と思います。それをセレクトしてしまう根性が。それこそが日本人のうつの原因であり、また社会的閉塞感を感じさせる理由のような。なんだか息苦しい。生き辛いなぁと感じる所以のような気がします。
なぜにそんなネガティブなのか?
誰かの悪口をみんなでよってたかって言っているのを聞くと、疲れます。どうして悪口というのはあんなに盛り上がるのでしょうか?欠席裁判、というのはどうも苦手です。いないから好き勝手言っちゃえってなんだか格好悪いじゃないの、と。そこまで言うなら、たまには本人にいってあげればいいのに・・・と思うことすらあります。
解決案を話しているのであれば、それは悪口ではありません。どうしたら、その人を変えられると思う?とか、どうしたらうまく行くんだろう、という議論のうえでの問題提起ならオーケー。それからここは悪いけど、こういういいところもあるよ、ということならそれはそれでいい。フェアだとわたしは感じます。
でもまぁ、それが本人にとってはありがた迷惑なのかもしれないのですが・・・。
人のことをつべこべ言う前にあなたは完璧ですか?とツッコミたくなります。もちろん、自分を含めて。そんな人いるわけない。
もちろん、人や出来事やモノに対して不満に思うことはあります。誰にでもあるはず。でもあえてそれを声に出す必要はないし、だまって知らないふりをすることも大切、思いやりなんじゃないかって。それをわたしの友人は「儀礼的無関心」と呼んでいたような気がします。でもそれが限界値を超えたらビシッと言いますけどね。
人に厳しく、自分に優しく生きるのは簡単です。
でもそれではどんどん落ちていくだけ。それはもったいないと思う。自分を甘やかしたり、厳しくしたりうまくコントロールしなくちゃ。きっとバランスを取り続ける必要があるのね。
やさしい嘘は嘘には入らない、というのがほんまちゃんのポリシーです。誰かのためを思ってつく嘘ならばそれは許されるべきだと。それから明確にし過ぎないこと。白黒はっきりさせなくてもいいことはしないとかどうでもいいことは逃げるとか。そういうのは優しさでずるさとは違うと。
誰かを傷つける、痛めつける嘘は最小限に、逆に誰かを幸せにする嘘ならばそれは嘘ではないと信じたい。
いつわる、というのはとても頭がいることで、相当な心配りと覚悟とそして愛がなければ出来ないことだと思う。
だから、やさしい嘘のつける人を尊敬します。
えっ、ところでほんまちゃんはどうなのかって?
残念ながら、頭も覚悟も愛もないので「やさしい嘘」はめったにつけません。イヒヒ。

Comments

  1. ひとの悪口、わたしも大嫌いです。そのひとに直接言うのは愛情、陰で言うのは悪意・うさばらし・足のひっぱり・・・
    そして自分に厳しく人に優しく。同感です。まあなかなか難しいけど。
    ほんまちゃんはいい子だね。

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  2. たけおとうさん、ステキなコメントありがとうございます。
    わたしも解かっているんです。それがとても難しいということに。
    だけど、だからこそ自分はそれをしなきゃって思います。人から見たら矛盾だらけだろうけど。
    うまく伝わっているか不安ですが、今自分が思うことを精一杯書いてみました。
    おとうさんみたいな人が周りにいてくれたらみんな幸せなんでしょうね。

    Reply

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