自分の中のずるさと好奇心

いつも、新しい発見があるなぁと思う。
どんなに疲れていても、どんなに浮き足立っていたとしても、たぶん同じように学ぶことはある、と思う。
ただし、毎日をそんな風に感じられないのはそのときの気分や感受性によるものなのかもしれない、と。
わたしは見た目よりもずーとタフだと思う。
タフでなければ生きてはいけない。弱さを武器に戦うことは簡単だけれど、それはしたくない、と思う。
たぶんそれは、自分が弱いことを知っているからかな。だからタフになれる。
いろんなことが見えると、きっと苦しい立場に立たされる。
でもその苦しさが自分を支えて、成長させてくれると心からそう思う。
だからそのことをわざわざ教えてあげる必要もないか、と。少しだけ意地悪な私もいる。言った所で伝わらないことだってあるのだ。経験しなきゃわかんないことはたくさんあるもの。
いつも自分の利益で生きている人が世の中のほとんどを占めていようとも、自分はそんな風になってはいけない、と思う。もちろん、自分の価値基準はあっていいのだけど、それが全てになるのは怖いことだと思う。周りが見えなくなることは。自己中心的に、イイワケを繰り返していると、それが当たり前になって、つまらない自分になってしまう・・・という危機感があって、それが実は一番怖い。
わたしの生き方は全然スマートじゃない。いつも試行錯誤の繰り返しで、うんざりする。もっと楽して生きていけばいいじゃないの、と人は言うかもしれない。
いや、18の時からずーと、言われ続けてきた。もっと前からかな。(笑)わたしの周りの人は本当に親身になってアドバイスをしてくれる。そういう人がわたしは好きだし、実際そんな人ばかりなのだ。だから感謝をしてもしきれない。皆が口を揃えて言うことはきまっている。「もっとずるがしこく生きることも出来るのに・・・」と。いや、むしろそうすべきだ、と。若さと美しさを最大限に利用すべきだと。
でも私自身がそれを許さない。許したくない。最大限に利用すべきは自分の能力でありたい。若さや美しさはオプションじゃなきゃだめなのだ。誠実であることが自分の核だと思うから。素直さは失いたくない。器用になんてならなくていい。不器用でいいの、といつも反論ばかりしてる。でももちろん自分の持っているものすべてで挑戦するけど。
ひとつのウソがたくさんのウソと結びつくように、ひとつの妥協がたくさんの妥協と結びつくのだと思う。
そして少しずつ何かをあきらめていくことが当たり前になる。
誰かに頼って、自分の頭で考えなくてもいいというのはとても不安で恐ろしい。そしてそんな自分はありえない、という結論にたどりつく。
それでもって、じゃあ自分じゃない人はどう考えるだろう、と相手の立場で物事を考えるようになる。ここ数年は自分以外の人がどんな風に物事を捕らえているのかが知りたくて、人と出逢い、食事をしながらいろんな考えや立場を勉強しているのだ。それが楽しくて仕方がない。
知りたいと思うことはただ知るための努力をするだけ。
結局は人がすべての価値を作り上げる。だとしたら人について知っていることこそが最も価値があるのではないか、というのが今のほんまちゃんの答えになっている。誰かの気持ちが分かること。人間力があること。感じる力があること。究極はそうなる。
そんな風にシンプルに生きてゆく、ともう決めている自分がいる。
そしてそうすることが自分にとっての幸せだと分かってしまっているのかも。

Comments

  1. 良い事が書かれてるのでコメントせねば!
    いつも自分の頭で考えてる姿勢には脱帽。
    私の場合はあまり考えずに行動して反省が多いけど…
    誠実であることが自分の核 これは大事。
    それがほんまちゃんの魅力だよ☆
    今どき楽をしようと思う人が大半なのにエライわ。
    こういう日記をスラスラ書けるのもすごいよ。

    Reply
  2. snoopyちゃん、ありがとね。
    いつもこういう投稿にコメントしてくれるよね。嬉しいなぁ。
    いやぁ、なかなか難しいよ。
    悩んでいるからこんな投稿を書いているだけかもしれないし。そんな立派な人間じゃありません。でも誠実な人間でありたいといつも思っているんだ。
    わたしはわたしが好きな人になれるようになりたいの。自分が自分を見たときに好きだなぁって思える人を目指してます。
    きっと、snoopyちゃんにはsnoopyちゃんだけにしかない答えがあるんだよ。いつかそんな話をゆっくりしたいね。

    Reply

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA